这绝对是只有49岁的新海诚,才能拍出来的故事。
在《铃芽之旅》于日本上映的2022年,新海诚四十九岁,做了爸爸,除了写小说,画原画,拍电影,还要养小孩。在东日本311大地震发生的2011年,新海诚三十八岁,有过《秒速五厘米》,还没拍出《你的名字》。他不是直接受灾的群体,却在之后十数年里止不住问自己,为什么?该怎么做?当时还能够做些什么?
这是一个节点。
于是在《铃芽之旅》这里,比起陨石降临、洪水滔天,这个关于“灾难”的议题,被更直接地摆到了台面上来。象征着地震的“蚓厄”,从被铃芽不小心打开的神秘门扉里喷涌而出。直接在背景中出现的311字样,虽然没有言明,却无疑对应了改变一切的那天。在这样的设定下,怀抱着三条腿椅子穿行在日本各处,关闭门扉、阻止灾难的铃芽,以及这背后加持的神话和民俗背景,就成为了新海诚哀悼日本伤痛的方式。
不过,比起把《铃芽之旅》看做新海诚灾难三部曲的终章,我却更愿意把《铃芽之旅》的关键词看做是——“废墟”。影片(小说)中男主角草太在遇到铃芽时,说的第一句话就是:这附近有没有废墟?
废墟,作为一个关键场景在片中多次复现。因为铃芽的好奇心,这些代表着灾难的门逐一开启,若不及时关闭,释放出的蚓厄就会在当地降下毁灭性的力量。绝非偶然,这些门,几乎每一次都出现废墟里。
这些废墟带着深厚的时代印记,甚至于可以说,它们就是被抛下的时代本身。片中几处铃芽的关门之地:废弃的温泉镇、弃用的学校、无人问津的游乐园、记忆中的故地,都是日本在经历九十年代泡沫经济后留下的时代遗产。当温泉镇不再有游客,学校不再传递成长,游乐园也不再制造欢愉,这些曾经被寄予厚望、代表着时代突飞猛进的庞大建筑,一夜之间就显得毫无用处了。
这就是新海诚说的:“人死去都会有葬礼,但是土地和城市死去却没有。”
于是铃芽的闭门之旅,就像是一场为土地、为过去和为现实举办的祭奠仪式。一个很有意思的设定是,她每次想要关闭门扉的时候,都需要借助“回忆”的力量。她需要闭上眼睛,去倾听曾经在这个地方生活过、体验着、成长了的人们的声音,才能得到关上灾难之门,封印蚓厄的能量。
这些回忆,是这些“无用”的废墟里,最为“有用”也最珍贵的东西。
因为,只有这些回忆不曾忘掉过这些地方,在自然灾难或是泡沫经济中都没有抛下过这些地方。而铃芽重新召唤出这些回忆之音的时刻,大概就是新海诚想要的那种,为死去的城市和土地举办的葬礼吧。它一面宽慰生者,一面吊唁故人,而发生着这一切的废墟,无疑是最适合举办这场葬礼的场地,因为,人们只有钻出废墟,才能踏上新的土地。
从这个角度上来看,也就会更理解铃芽穿越日本的关门之旅,和她在一路上遇到的那些人了。整个《铃芽之旅》,还可以被看做是一个小女孩的成长故事,并且很难得的,可能是当了爸爸的缘故,新海诚这一次少有地触及到了成人世界,并为环姨妈这个角色,赋予了相当的复杂性。
《铃芽之旅》的主结构是公路片,在不小心打开过和姨妈一起生活的九州的门之后,铃芽必须跟随大臣猫咪的脚步,去日本各处关门。她在一路上遇到的各色人等,除了草太的同学岡部之外,全部都是女性。
现实,善意,还很女性主义。
当然,这一定程度上是为了解决“离家出走的未成年女孩铃芽要住在哪里”的道德前提。但与此同时,你会慢慢发现,这些人物,也共同构建了以现实为前提的女性图谱。
在第一站的爱媛县,铃芽遇到了和自己同为女高生的海部千果,于是住在女孩子的家里,也成了一个理所当然的密友时刻。与铃芽相对无忧的少女生活不同,海部千果需要帮忙运橘子,给家里帮忙。这是另一种早早就社会化的女高生活。千果和铃芽因为找猫建立起的共同话题、聊男生和恋爱时的萌动,都独属于少女的时刻。在这之外,遇见千果,其实也还隐藏了另一层含义,那就是,假如没有失去妈妈,假如日子还能正常生活,那铃芽或许,就能有千果这样简单温暖的家庭体验。
那是铃芽所没能拥有的生活。
比起千果,在下一站遇到的单亲妈妈二宫留美,则又代表了另一种方式。单身、带着两个孩子、夜晚从妈妈变成酒家女,你完全可以想象她生活里的千疮百孔之处,但她却能让这疲倦消散在夜色、歌声、酒水和孩子的欢笑声里。这是《铃芽之旅》想要让我们看到的、明显的镜像关系——独自带着铃芽生活的环阿姨,就是另一种二宫留美的生活。
于是在这样的铺垫下,环姨妈爆发的那句“把我的人生还给我”的崩溃,便已经足以勾勒出她全部的前史。我们以前有多么站在铃芽的角度去对待与环姨妈之间的关系,现在就有多理解环姨妈在代替母职的位置上,所经受的一切。这不仅是作为观看者的我们在代入感上的成长,也是铃芽“之旅”里,她自己的成长。这甚至还是一个不断接近社会、不断靠近真实生活、一步步迈向成人世界,乃至“去童年神话”的过程。
铃芽必须要从少女神话中走出来,面对真正的现实。她之所以能够被选中,成为闭门的少女,某种程度上,也是因为有其他“不再是少女”的女性,帮她缔造了一个可以做梦、能够参与神话的空间。
一个证据是,这个故事不管是小说还是电影,都开始于铃芽的梦境。另一个证据则是,环和铃芽的姨侄关系,也是在后来不同版本的修改中,慢慢诞生的。她沉重的爱,她有点令人窒息的关心,她被突然到来的亲情夺去的生活,都使得铃芽的成长故事,找到了那个闭环的关键点。
抛弃掉少女神话,也是需要勇气的。尤其是对于一直拍少男少女的动画宇宙来说。在动画世界中“少年纯真即正义”的宇宙法则下,成年人的世界可能因为其世俗被视为某种“废墟”,《铃芽之旅》在小小地尝试挪动这个法则,哪怕只有一点点。
于是,废墟的意义,也在灾难、时代变迁和少女成长故事上三位一体了。在故事的最开始,铃芽还没有领悟到,自己和环姨妈之间不够亲密的关系,是失去妈妈后、经历灾难后的的求生技能。在故事的最后,在与环姨妈的那场大雨争吵中,在回到家乡重新面对那段回忆之后,铃芽才明白过来,阻止灾难并不是最重要的,重要的,是灾难过后,我们要如何和那些具体的人,一起生活下去。
而这,也使得《铃芽之旅》的故事,从“废墟”中,掘出了一条通往“后灾难叙事”的甬道。一个人的死是悲剧,一万人的死是历史数据,对铃芽来说也是如此。这是她理解灾难的方式,也是新海诚为什么一直在片中,把311作为一个大背景,却从没有点明的原因。这是属于太多人具体的悲剧。神话不能改变悲剧,但电影,或许可以给大家一些重新看待悲剧的力量。
《すずめの戸締り》⭐️⭐️(2/5)
(纯纯抒发个人情绪,极其不客观,非专业影评人,酌情观看)
看小红书给我推喷它和赞它的帖子好多天,心痒痒就来看了,果不其然是好烂的片子。为了防止被骂说我没认真看,我还得把他写的又臭又长的册子给逐字阅读之,新海诚我为了喷你真是鞠躬尽瘁啊。
我觉得吧,这部电影依旧是新海诚在《你的名字》之后,继《天气之子》又一次失败的尝试。他自己的职业规划具体如何我不清楚,但我感觉到他真的很想要把灾难题材做好。即使《你的名字》前后无数部作品已经自证了他做不好灾难片,只擅长做小情小爱的个人题材。
设定乱七八糟,恋爱线莫名其妙这种被大家诟病的我就不说了。整部电影就是想一出是一出,设定全部在剧情高潮中硬挖空间来找补,从头到尾女主就在诶诶啊啊中被拉来扯去,观众也跟着被拉来扯去,被动的要命。一会儿吃个饭一会儿演点公路片,到头来女主一直在蹭吃蹭喝蹭车蹭衣服,危险来了物理关个门往地上扎个洞就万事大吉了,真的给我看出一种我上我也行的错觉。
新海诚近年来越活越像他自己片里的主人公。叛逆期,像个小孩,在世界的动荡中迷茫又摇摆。这些特质能让他笔下的角色栩栩如生,但是也显现出他对于灾难的感受:空虚,肤浅。在片外现实生活中他看到灾难发生时还是只会张大嘴巴惊叹,真糟糕。
他在册子里说,“311的十天后,我注意到东京的樱花开了。”
这就是他的人生观,改不了的,他的心向着的不是众生的悲伤和苦痛,他看到的就是虚无缥缈的生活中的碎。新海诚为什么做灾难题材一直做一直拉,就因为他还是个看着亮晶晶的东西就移不开目光的小孩。
就好像小孩也知道什么是美,小孩也知道绘本中简单的故事里蕴含着大道理一样,整部电影就像会动的绘本,新海诚就是那个很会画画的小孩。但让小孩清晰地理解/说明绘本中到底蕴含着什么大道理,我相信新海诚就和小孩一样,支支吾吾说不明白。
which means,画面是美的,世界系大手新海诚依旧特别清楚怎么把自然描绘得淋漓尽致,很赏心悦目的,但也就到此为止了。
说实话吧新海诚,你是不是把宫老的电影给盘烂了?这个到处都是幽灵公主和哈尔的移动城堡即视感的片子让我觉得你好可爱,和追逐繁星的孩子阶段的你一样可爱。承认吧新海诚,你想不出分镜的时候是不是也来来回回把宫老的电影翻来覆去地看?哎,我懂你啊。
他自己也说,49岁的自己已经做不出当年那样的《你的名字》。能感觉到疫情把他伤春悲秋的心给震碎了,所以做出来的影片也是碎不拉几的。我能在场景刻画中感受到悲痛的力量,很震撼。但一旦人物开始说话,整个剧情就变得无病呻吟起来。我说话比较直接,我觉得这是新海诚的思想没有深度的见证。毕竟怎么会有一个人快中老了还在画叽叽喳喳的叛逆女高中生嘛…
但我还是很敬佩他更新的速度,你的名字之后明明可以坐享其成,但是他依旧在不停写新的企划,做新的作品,挑战他不会的东西。唯一让我觉得不舒服的是,他何德何能请得动那么多业界精英陪他这个小孩一起玩啊?真是酸死我了。
他的作品里,我还是最喜欢《言叶之庭》,《言叶之庭》出的时候我就在喜欢《言叶之庭》,谁曾想2022年他做了那么多部电影,我还是最喜欢《言叶之庭》。不知道他现在这样算不算执迷不悟,也或许我期待他回到过去其实才是执迷不悟。
豆瓣的影迷们,大家好,我是导演新海诚。应该有很多朋友都是通过《你的名字。》《天气之子》认识我的吧。之前《天气之子》在中国上映时,我对大家许下承诺,三年后我会带着新作品再次与大家见面。这次能带着《铃芽之旅》来到中国,实现这个约定我真的很开心。
豆瓣の皆さん、こんにちは。新海誠です。多くの人が『君の名は。』や『天気の子』を通じて僕のことを知っているかもしれません。『天気の子』が中国で上映されたとき、僕は皆さんに、3年後も新しい作品を持ってもう一度皆さんと会いに行きますと約束をしました。今回、『すずめの戸締まり』と共に中国に来ることができ、約束を守ることができて本当に嬉しいです。
想要创作这部影片的念头源于12年前的3.11东日本大地震,那是一场巨大的灾难,大地震和大海啸接连发生,整个城市都要被冲走了,无数人的生活受到重创。这场灾难后让大家产生了一种不知道日常生活何时会崩坏的感觉,所有日本人都非常迷茫,在思考国家接下来将何去何从。我不是地震的直接受害者,这也让我产生了强烈的内疚感:我作为一个娱乐电影创作者,应该担任怎样的职责?
この映画を作ろうと思ったきっかけは、12年前の3月11日に発生した東日本大震災です。それは本当に大きな地震で、巨大な地震と大津波によって街全体が流され、数え切れないほどの人々の生活が大きな打撃を受けました。 この災害の余波は、いつ日常生活が崩壊するかわからないという感覚を生み、日本人全員が非常に混乱し、この国はこれからどうなっていくのだろうと考えていました。 自分自身は直接の被災者ではなく、それも自分に強烈なうしろめたさが残りました。エンターテインメント映画の創作者としての自分の役割は何なのだろうと。
我一直认为电影有一个魅力是能让观众在情感上投入,即使与电影中描述的世界相去甚远,但只要吸引了观众,就能让观众与主人公共情。于是我把大地震作为重要元素,把主人公铃芽设定为一个受灾孤儿,她会经历怎样的旅程,就成了这部电影的主题。
僕はずっと、映画の持つ一つの魅力は、観客を感情移入させることだと思っています。いかに自分からかけ離れた世界を描いたとしても、作品に引き込まれれば、主人公と同じように共感することができると思うのです。そこで、震災を作品の重要な要素として、主人公のすずめの設定を震災孤児にし、彼女がどのような旅をするのかを映画のテーマとしました。
所以12年前那场真实发生的灾难中很多人的境遇和电影中的铃芽非常相似,失去了亲人,失去了家,也丢失了原本快乐的自己。大家在电影中看到的一些场景,就是实实在在发生的真实场景。电影最后铃芽回到了自己的家乡,打开往门回到小时候发生地震后的城市,火光肆虐,席卷了小镇,那都是真实还原了被海啸袭击之后的场景。还有一个场景,不知道大家注意到了没,就是有一艘非常大的船跑到了建筑物的上面,这也是现实中发生过的景象。
12年前のあの現実の災害では、多くの人が映画の中のすずめのように、大切な人や家、そして楽しかったころの自分を失ってしまいました。 映画の中に出てくるシーンの中には、実際に起こったシーンもあります。 映画の最後、すずめが故郷に戻り、扉を開き、幼い頃に地震が起きた後の街に戻るのですが、その時に猛威を振るい、街を襲う火災は、津波に襲われた後の様子をそのまま再現しています。 また、お気づきかもしれませんが、大きな船が建物の上に乗り上げている描写がありますが、これも当時実際にあった光景です。
基于此,我创作了剧本,跑到制片公司跟他们商量,听他们的反映。我害怕有人会反对,但是没有想到,我们团队的每一个人都非常地支持我,说“我们必须完成这样一部电影”。每一个人都认为,现在地震已经过去12年了,又刚经历了全球扩散的新冠疫情,这部影片带给大家是一个最好的时机,给经历过那场灾难的人们予以抚慰,给没有经历过的人们分享那段伤痛记忆的同时,也带来面对现在生活里困难的勇气与信心。
そんな思いで脚本を書いて、企画会社に持ち掛け、意見を聞きました。 反対する人もいるかと思いましたが、驚いたことに、チームの全員が「この映画は絶対に作らないとだめです」と応援してくれたのです。 震災から12年が経ち、世界中が新型コロナウイルスを経験した今、この映画は、震災を経験した人たちに慰め、そうでない人たちにも記憶を共有し、今の生きづらさに立ち向かう勇気と自信を与えられるのだと、認めて頂けました。
因此虽然整个故事是悲伤的情感基调,但是我依然希望大家观看的过程中,除了落泪也可以觉得非常开心、非常有期待,并且最后走出影院的时候,能带着积极正面的情绪,相信不管我们遇到什么样的灾难和痛苦,未来总是光明的,我们一定能够熬过去。
ですから、全編に渡って悲しいベースはあるのですが、それでも涙だけでなく、楽しい気持ちや期待感を持って観ていただいて、映画館を出るときには、どんな災難や苦しみに遭遇しても、未来には光があって、乗り越えていけるんだという前向きな気持ちを持って頂きたいと思っています。
我每次完成创作之后都会发现有不完美的地方,也非常需要观众给我反馈。我会思考在下一部作品中怎样去完善它,如果下次做到了就是一种进步,这十年间我就是在这样的创作氛围里努力做好我的本职工作。
作品を完成させるたびに、不完全な部分というのは見つかるもので、観客からのフィードバックがいつも必要です。 次の作品でどう改善するかを考えて、それができたら進歩したと考える。この10年間、そのように創作を続けてきました。
大家知道如果是真人电影,有了剧本接下来就会直接进行实景拍摄。但是动画电影不一样,我们首先要画绘画的分镜。画分镜的时候,我一个人几乎完成了所有的工作,不是一张张的图,是动画分镜,像动画一样的草图,两个小时的电影,我就画了两个小时份量的草图动画,一共做了一年三个月。而在做动画的时候,一定要有声音,有了声音才知道动画的节奏,所以我又去完成了配音,不管草太还是铃芽的配音,都是我一个人先去亲自完成的。在中国和大家见面的时候,我也尽全力在每一场现场表演了变成了椅子的草太配音,希望给观众们带来有趣的体验。
ご存知のように実写映画であれば、脚本があれば、次のステップはそのまま撮影になります。 しかし、アニメーションの場合は違います。まず、絵コンテを描かなければならないのです。 絵コンテは僕一人で全ての仕事を担当します。しかも僕は絵ではなく、ビデオコンテ、動画の状態になったラフを制作しています。2時間の映画なら2時間ぶんのラフなアニメを作ります、その過程に1年3カ月かかりました。 また、アニメーションにするときは音が必要です。音があるとリズムがわかるので、草太のアフレコもすずめのアフレコも、全部僕一人で行いました。 中国でみなさんとお会いしたときには、各会場で椅子になった草太を演じました。皆さんに楽しんで頂けたなら幸いです。
既然说到了小椅子,我也来分享一下一路带着小椅子旅行的故事吧。在过安检的时候,可能会被人家拦下来,问一下这是什么。他毕竟是主角,是我们这个作品最大的标志之一,而且一下子就能吸引到观众的目光。即便是没有看到过这部作品的人,也会产生好奇感,给大家深刻的印象。不知道你看完电影后有没有觉得草太椅很可爱呢?在我带着这把小椅子巡游各个国家的时候,不管是在接受采访的时候,或者是与观众见面会的时候,因为有了这把椅子,所以整个氛围还是很轻松很温馨的。所以我很感谢小椅子。
すずめの椅子の話になったので、すずめの椅子と一緒に旅行した話を紹介しましょう。空港の保安検査を通過する時、よく「これは何ですか」と呼び止められることもあります。 何しろ彼は、主人公であり、すずめの戸締まりのシンボルで、見る人の目を一瞬で惹きつける存在なのです。作品を見たことの無い人にも興味を持って頂き、深い印象を残してくれますから。 映画を観た皆さんも、草太の椅子をかわいいと思ってくれましたでしょうか?この小さな椅子を持っていろいろな国を回っていたとき、インタビューのときでも、お客さんに会うときでも、椅子があると全体の雰囲気がほっとします。 だから、この小さな椅子には感謝しています。
至于为什么是“椅子”,在我小的时候,父亲帮我亲手做过一个木椅子,在上面还写上了我的名字。那个时候我就觉得特别开心。对一个孩子来讲,有刻着自己名字的一个小凳子,就相当于是你自己专属的一个地方。所以这次影片中需要这样一个角色时,我自然地把小椅子创作了出来。
子どもの頃、父が木の椅子を作ってくれて、そこに僕の名前を書いてくれ、私はとても幸せな気持ちになりました。 子どもにとって、自分の名前が刻まれた小さな椅子があることは、自分の居場所ができたようなものです。 だから、この映画でそういうキャラクターが必要になったとき、自然とこの小さな椅子ができあがったのです。
另外,我有收到有观众提问说“小椅子为什么是三条腿?”这个原因我确实没有在电影中明确地讲,我在这里就特别跟大家分享下我的创作想法吧。因为铃芽小时候发生了海啸,整个家都被冲走了,这把小椅子也被冲走了,所以冲掉了一条腿。我觉得三条腿的小椅子其实就是铃芽内心的象征,她的内心始终会有一种失落感、缺失感,因为在地震中她失去了最爱的妈妈。我也借此告诉大家,即使我们可能是有缺失的、是不完美的,但是你依然可以生活得很好,可以去勇敢面对自己的生活,都能像草太一样,三条腿站起来自由勇敢地向前奔跑。
観客の方からは「なぜすずめの椅子は3本足なのか?」という質問を受けました。 映画の中では明確に言わなかったので、ここで私の考えをお伝えします。すずめが子供の頃、津波が来て家ごと流してしまった時、椅子も流されてしまい、その時に足の1本も流されてしまいました。3本足の小さな椅子は、実は震災で最愛の母を亡くし、喪失感や不在感をずっと抱えているすずめの心の象徴でもあるんですね。そして、3本足でも立ち上がり、自由で勇敢に前を向いて走っていった草太のように、たとえ欠けている部分や不完全さがあっても、勇気を持って自分の人生に向き合って、良い人生を歩んでいけることを伝えたかったのです。
影片中还有一个重要元素是“门”,我觉得“门”就是我们日常生活中很常见很有代表性的一个元素,我们每天都会开门说“我出发了”,在下班或者是放学回来的时候非常开心地说“我回来了”,这些日复一日的动作其实就构成了我们的人生。但是灾难就会让很多人有去无回,说了“我出发了”,但是很多时候我们就再也等不到亲人的那一句“我回来了”。现在在世界各地也仍旧发生着很多的灾难,但是我始终相信不管怎样我们都一定会有非常美好的未来,也希望通过我的作品能让大家更珍惜日常的幸福、更相信未来的美好,我们就一起这样好好生活着吧。
もうひとつ、この映画の重要な要素に「扉」がありますが、「扉」は、私たちの日常生活の中で非常によく見る、代表的な要素だと思います。 毎日扉を開けて「行ってきます」と言い、会社や学校から帰ってきたら嬉しそうに「ただいま」と言う、そんな日常の行動が実は私たちの生活を構成しています。 しかし、災害によって、多くの人は「行ってきます」と言いながら、大切な人の「ただいま」を待つことができないまま、帰らぬ人となってしまいました。世界中の多くの場所で、今でも様々な災害が起きています。作品を通して、皆さんが日常の幸せを大切にし、明るい未来を信じ、共に生きていくことができればと願っています。
还有看到大家在讨论铃芽和草太的感情,其实这次这部电影主要想讲的是铃芽,她自我和解和自我成长的故事,我觉得不能单纯描写情愫,需要让铃芽和一个人之外的东西产生交流,让她更好完成自己的蜕变。而在处理铃芽和草太的感情时,我认为草太对铃芽来说是一个非常向往,却又未知的形象,她可能有些近似于憧憬的小情愫的感觉。所以我希望在大家观看整部影片过程中,能让大家关注的,不是他们两个人应不应该在一起,而是他们如何并肩克服困难,获得自我成长。
また、皆さんが議論している、すずめと草太の感情について。今回の映画で伝えたかったことは、すずめの自分との和解と成長の物語です。そのためには、ただ恋愛を描くだけではダメで、すずめとその外にある物事との交流を描くことで、すずめが成長できるようにする必要がありました。また、すずめと草太の関係を扱う上で、草太はすずめにとって、憧れの存在でありながらミステリアスな存在でもあり、憧れに近い小さな恋のような感情を抱いているかもしれないと思っています。ですから、全編を通して、2人が一緒になるべきかどうかではなく、2人が並んで困難を乗り越え、自分自身を成長させていく姿に注目していただければと思います。
大家在看电影的时候,可能会在看到铃芽第一次见到草太便被吸引追随的时候,觉得不太理解,觉得怎么就一见钟情到这种程度,对吧?但是我相信很多朋友在看到后面的时候就会知道,其实她不是一见钟情,还有更深层的原因在里面,相信细心的大家看到后面就会知道这个答案了。
すずめが初めて草太と出会ってから、彼に惹かれて、ついていくところを観て、「ひとめぼれだけでここまでするのか?」と分からなくなってしまう人もいるかもしれませんね?でも、実は彼女にとってはそれだけではなく、もっと深い理由があったということは、注意深い方なら続きをご覧になれば、その答えがおわかりになるかもしれません。
我还看到有很多观众在讨论电影的细节,很开心大家有关注到这些彩蛋。比如黄色的蝴蝶代表着铃芽对母亲的思念,它其实是一个可有可无的元素,也没有台词,有些观众可能根本不会注意到它,但是注意到它的人就会有更深的理解。还有比如说,我的影迷朋友们会对我作品里的人物很熟悉,我就会在电影里设置一些跟之前作品的关联,比如《铃芽之旅》的背景音乐当中,就有《天气之子》和《你的名字。》背景音乐的小片段插在里面。而且《天气之子》当中,有一个人物戴了一个骑摩托车的安全帽,这个安全帽在《铃芽之旅》当中也有人戴。其实我在影片里面会注重埋入这些小彩蛋,这样也能够让影片更吸引人。也欢迎大家可以去2刷3刷,去捕捉更多小彩蛋,发现更多惊喜。
また、映画の細かい設定について話している方も多く見かけましたが、そのような点にも注目してくれたことをうれしく思います。 例えば、黄色い蝶はすずめの母への憧れを表現しています。存在していなくても成り立つ要素で、セリフもないので、気づかない人もいるかもしれませんが、気づいてくれた人はより深く話を理解できるかもしれません。 例えば、僕の作品のファンの方で、私の作品に登場するキャラクターをよく知っていると思うので、例えば『すずめの戸締まり』の背景音楽の中に『天気の子』や『君の名は。』の音楽の一部を挿入したり、過去の作品とのつながりを設定することもあります。また、『天気の子』では、登場人物の一人がバイクヘルメットをかぶっていますが、このヘルメットは『すずめの戸締まり』でもあるキャラクターが被っています被っています。 このような細かい要素を作品の中に入れることで、より魅力的な作品になるようにしています。ぜひ、2回、3回と観て頂いて、より多くの驚きを発見して頂けると嬉しいです。
最后还要感谢和我一起制作这部电影的幕后团队,我们团队有一千多位员工跟我一起,才完成了大家在电影院今天看到的这部电影。当然更要感谢每一位观众,是你们的支持和喜爱支撑着我一直在创作。
最後になりましたが、この映画を支えてくれたスタッフたちに感謝したいと思います。今回の映画には1000人近いスタッフが関わっています。もちろん、この映画を観に来てくれた皆さん一人ひとりにも感謝したいと思います。皆さんの応援と愛に支えられて、私は創作を続けられています。
这世上最遥远的地方
是自己的心
出生以来关了多少次门?
——寺山修司
最近一直在读手冢治虫的书:《一介平凡的影迷》。他的人生(1928-),几乎与昭和时代(1926-)叠合,感慨老人家在电影的钻石山,真收获到太多宝藏。手冢去世之际,影响一代中国影迷的吉卜力工作室已经问世——尽管它的全盛时代,该是新世纪前后的《幽灵公主》和《千与千寻》。宫崎骏老了,越画越慢。日本电影导演,常以高寿著称,但还有多少部作品,掰几个指头便知。 当我列出第三个名字,新海诚。想必有些人不爽,他已经可以写入到日本动画史了嘛?!其实我也不知道,只是下午刚好看了《铃芽之旅》,讲到地震的历史,记忆的伤痛,和解与成长,而闭门师的职业,被解读为同气连枝,代代传承。 新海诚的电脑作画方式,包括他从起步之初的影调风格,流光飞舞,风花雪月,已经大不同老前辈,更不同于西洋动画。精雕细琢青春化,并非真有什么秘籍渊源。我要说的,是题材。本质上,日本一直处于战后状态,号称永久和平。然而,创作者最关切的,在手冢时代,是核,原子弹,核子大战,世界末日。它其实也是冷战的标签(又在我看来,《铃芽之旅》第一处废墟的穹顶,直接令我联想到广岛)。再到吉卜力时代,与大自然共生,绿色环保的主题,一再出现。《铃芽之旅》的那一个世界,与《千与千寻》的异世界,何尝不是同归。只不过它是以异世界讲此世界,频繁穿越,而宫崎骏是以彼世界警此世界,南柯一梦。
穿越的《铃芽之旅》,连新海诚两部前作长片,主讲311。2011年,3月11日,东日本大地震。如果关注日本电影,该已经见过不少,像《浅田家!》的后半段,我印象深刻。311大地震的记忆,也出现在许多艺术片中,譬如滨口龙介。《铃芽之旅》后半段(或整个旅行路线),也特别像开红车的Drive My Car——都不用太联想的,家福不正是在错误时机推开了一扇门,又从此无法关上。具象的门,直接变成了一剜失魂落魄的黑洞。
震后的余绪,也能在电影里点提的1995阪神大地震和1923关东大地震找到,像村上春树就有关于阪神的文字(神户是村上的第二故乡)。至于关东大地震,盘点日本历史,必会出现。记忆不错的影迷,也能迅速浮现出来《千年女优》的场景,还有电影中的地震元素。
对亲历者,大地震会取代年月日期,变成被涂黑的一页页,记忆在那里扭曲、坍塌,隆起、破碎,如同地震波洗劫。再有天火与海啸,确实是恐怖大灾难(电影最后决战的背景就像关东大地震与311的废墟混合)。 新海诚长片后来发生的变化,就是处理小恋爱的世界系方式,从《星之声》宇宙大战,《秒速五厘米》的伤春悲秋,落回到了商业类型片计算精准的煽情换算,即小恋爱与大日本的关系。前者在平成年,存在感超强。后者一片稀碎,却因311这样的强震,强化了性命苟全于列岛的共同体命运。于是乎,现实逻辑中的板块冲撞,变成了另一个世界的探头蚯蚓(其实像火山熔浆),没有人再想反驳一个日常少女可以扮演当代英雄的虚构故事。一体两面,本来就是变形的动画,与这个真实世界的最大差别。我们容许它的不真,容许猫开口说话,容许古老的传说在地底下喃喃自语蠢蠢欲动。至于打开一道又一道的心门,少了一条腿在世上行走。这一次的新海诚,讲解伤痛,戳的点,放的线,会比前两部作品处理得更妥帖。至于煽情是否受用,就因人而异了。
还有,频繁DJ放歌这件事情上,新海诚比此前的公共场合大声外放,收敛了许多,且以车载音乐🎵切换出来,自然了许多。
而说到类似的技巧变化,如何闭门上。《铃芽之旅》除了摩天轮有变化创意,其他还是停留在“用力、用力、一起用力”上,固然简单受用,未免太过直给。类似的直线球,在这部电影里无疑有许多,在过去的新海诚又更多。譬如对抗莫名大邪恶上,你会发现,电影的本质,就像打游戏一样轻巧,中学少女迅速就上手了。战斗过程,无非在积攒红蓝气槽,掉血了,攒怒气了,然后一鼓作气,干得漂亮。从头到尾,来来去去,只有这么一套。我看电影过程,就不禁在想,当男女主人公大喊大叫的时候,柏林评委、黑社会专家杜琪峰看了,作何反应。
当然,有人会说,《铃芽之旅》的主题是和解。不过,它所包装的大场面,从目睹山火赤练,到上钥匙的反复,确实叫人疲惫,相反,间奏出现的日本旅行,风土人情,反倒更有趣味。但或许精算之下,观众需要频繁的刺激打断,否则就不成电影,如同用利用猫🐱的可爱。但是论可爱这个事情,想想吉卜力的吉祥物龙猫,它甚至不需要开口说话,就能传递给观众太多东西:视觉上,情感上,还有神秘感。而对大臣和左大臣,无论社交媒体再多夸赞,直言可爱,再到电影的实际处理方式,未免流于扁平的萌可爱。
先摆出结论:二刷完后,个人认为在《铃芽之旅》里,新海诚拿出了目前最高的创作水准。
电影的宣传一直在说,这是新海诚“集大成之作”。首映看完后,我才理解到,这并不是说《铃芽之旅》像是集拼盘一样,集齐新海诚所有过往的优点;而是新海诚真的向前迈开了好几步。这是另一种“集大成”。
在《铃芽》里,他敢于打开自己,敢于丢弃固有的一些特质,向社会关怀维度的艺术创作去转型。这让片中的情感内核与表达深度,都跨向了更辽阔深远的格局。
与此同时,这也让它在全球的国际影坛上发出了重要的声音。毕竟上一次入围柏林主竞赛、收获大量好评的日本动画,还是很久以前宫崎骏的《千与千寻》。
新海诚在《铃芽》里究竟做到了什么,让它成为一部突破自我之作?
在“灾难三部曲”的前两部(《你的名字。》《天气之子》)中,新海诚展现了他对“世界系”青春物语一以贯之的坚持。但《铃芽之旅》就不太一样了,它的故事在某种程度上,是有点“反世界系”的。
女主角铃芽的人设,是遭遇童年创伤的311大地震幸存者。2011年3月11日,日本东北部仙台发生9.0级大地震,引发了空前的大海啸和核泄露,致使22118人死亡或从此失踪。铃芽家位于震源地,她的母亲也成了遇难者。失去至亲的铃芽,只好与姨妈搬到日本南部的乡下九州,尘封起相关的记忆。
时至今日,铃芽已是一名高中女生。因在上学途中偶遇了长相帅气的神秘男子,她意外来到一处废墟,移走了矗立其中的“要石”,因此打开了“往门”。打开这扇门,人就会在刹那间进入到“常世”。这里躲着“蚓厄”,这是一种会对地表进行巨大伤害的地震源巨兽。铃芽打开了这扇门,“蚓厄”就此被放了出来。
由此,铃芽要从南到北踏足全日本去关门,她的旅途就此开启。只有这样,才能保证数以万计的生命不会突然消逝。
经过以上对电影开篇的描述,大家肯定能对《铃芽之旅》产生初步印象。这是一个以灾难过后的痛楚与治愈为主题的青春物语,也是新海诚首度尝试公路片类型。行至最后,势必指向铃芽要如何对受伤的心灵进行自我修复。
相比之前的创作,新海诚这次最大的不一样,就在于社会议题的挖掘。如果说《你的名字。》《天气之子》中的陨石、暴雨,还需要观众用联想力,将它们作为现实灾害的一种银幕隐喻;那么《铃芽》则是一篇直接与灾害对话的“叙事诗”。片中所有的奇幻设定,都能在现实中得到对应。
以下是大家看完《铃芽》后,应该都会有所关心的一些议题与细节。我罗列出来,并逐个进行分析,希望能帮到你。
·“往门”的寓意
每处废墟里的“往门”,都是近代日本曾经发生过7级以上大规模地震的源头。全片的主线,可以被概括成是一场少女回溯“日本地震史”的旅程。铃芽每次关门,都是一次纪念与祷告。
铃芽的行进路线:九州(现居地)→四国爱媛县→神户→东京→岩手县(老家)。这条路线分别对应着:2016年的九州熊本大地震,2014年的伊予滩地震,1995年的阪神大地震,一百年前1923年超过14万人罹难的关东大地震,以及2011年的311大地震。
“往门”其实还对应着一道道“家门”与“心门”。门里藏的,是过往的悲恸。而门外等着的,是人与人之间的温暖善意,也是我们必须收拾好自己、努力活下去的信念。
·草太的咒语
草太呼唤日不见神和土地神出来镇压“蚓厄”,这是一段与神明沟通的咒语。“日不见”指生活在地下的鼬鼠,它们以蚯蚓为食,对“蚓厄”有震慑力。此外,草太也需要向土地神强调:人是百代之过客。
废墟不只存在于现实,也存在于许多人的心中。废墟里包含了受灾幸存者的挂念,以及罹难者的记忆。新海诚以此咒语,表达对土地的敬意、对罹难者的缅怀。
·“要石”的牺牲:猫咪大臣的身份
从片中宗像羊朗爷爷与铃芽的对话、与左大臣的对话,左大臣被镇在东京“往门”(关东大地震后被镇下)这几处细节,我们可以综合推测出:左大臣与大臣的前世,有可能是一对闭门师亲子,只是他们作为人类的意识已经消散了。大臣也许在化为“要石”之前,还是个稚气未脱的天真孩子,就这样停滞了意识。
爷爷曾对铃芽说,她亲手把草太变成“要石”是荣耀,并要铃芽把他忘了,通过他的牺牲换得几十万人的安宁。能看出来,这是个流传下来的惯例,每个“蚓厄”的轮回世代(每隔百年),都会有闭门师家族的人,要做出类似的牺牲。“要石”并非是从天而降的神灵,而是人被物化后,成为的镇压地震的神物。
·大臣一路上的目的
如果把大臣理解成是一个孩童天性的人,而不是一个反派,他的动机就变得非常简单。铃芽不小心把他放到人世,他重见天日,幻想能和铃芽成为家人。新一轮的“蚓厄”来袭,大臣本想让草太替自己完成使命,最终却牵引着命定之人(铃芽)到达了“常世”。
一路上大臣看似邪恶,但他的目的却很单纯。比如那句“从现在起会有很多人死掉”,以阴险的心理和天真无邪的心理说出来,完全是两种意思。片中其实是后者。而在铃芽表达对大臣的不理解乃至恨意后,大臣的神力与形象都瞬间瘦小了下去,这也很符合小孩子的精神状态。
最后铃芽想让自己成为新的“要石”,此时大臣为了舍命保护她,才说出“我当不了铃芽的小孩了”,并主动化为“要石”。铃芽才猛然醒悟,原来大臣一路都是引导着自己去找“往门”。大臣虽然是全片最萌的吉祥物,但也是个悲剧性角色。
·三条腿的椅子
这把椅子是铃芽妈妈亲手给她做的,家被海啸冲毁时缺了一条腿。它象征着地震给一些受灾者造成的身体上的创伤,同时也象征铃芽失母后的心理创伤。草太变成椅子后,就算只有三条腿也照跑不误,表达的是地震受灾者们的坚强与坚持。
新海诚也提到,关于椅子的另一个隐喻是:最近几年,很多年轻一代都感到被困住、被束缚。他想把人们的困顿感,投射到草太被封印进椅子里这个设定上。
·姨妈爆发出心底的阴暗面
左大臣通过心灵控制的方式,让姨妈透露出心底的苦恼。在这12年的生活中,姨妈与铃芽生活在一起,彼此都没法把自己的真心话说出来,久而久之,反而导致了铃芽成长路上的心理障碍。为了解决这个问题,左大臣才插手此事。这样做虽会伤害彼此,但这些伤人的话被直白地说出来,反而促使铃芽能够向前再迈开一步。
此外,姨妈追着铃芽奔走,恰好对应了左大臣追着大臣想要弥补错失。两组角色都陷入了代际问题当中。
·废墟的创作来源
近几年,新海诚发现街道愈发冷清,不少地方人迹罕至,逐渐成为废墟。观察废墟,会感到奇异的浪漫与悲伤,也会感到独特的美感与情感。现代废墟正越来越多地出现在世界各地,他因而想创作出一个悼念土地的故事。
在看《铃芽》最后几场戏时,我在脑子里联想到了滨口龙介的《驾驶我的车》。两者都是回到灾后废墟,与过往的人生达成精神上的和解。后来我发现,这不是毫无逻辑的联想。《驾驶我的车》改编自村上春树的同名小说。而新海诚也表示,《铃芽》的一些创作灵感来自村上春树的《海边的卡夫卡》《神的孩子全跳舞》。
·铃芽在“常世”里见到幼时的自己
这是我看《铃芽》时最大的一个泪点,原来铃芽就是她自己的“命定之人”。因果循坏,命运的齿轮前后咬合。如同《哈利波特》里,哈利用时间转换器拯救自己一样,本片拥有相似的时空与情感逻辑。“常世”里所有的记忆与时间都汇聚在一起,跨越并折叠着所有时空的维度。
铃芽之所以踏上这趟旅程,是因为那个救赎幼时自己的人就是她本人。只有自己了解自己的痛苦与欢乐,也只有自己能做出真正的选择。当她说出“未来并不可怕,我是铃芽的明天”时,那一刻我才理解到,铃芽逐渐走出内心的创伤,并非是因为发生了什么奇迹,而是因为她在这12年间,平凡、普通,而又努力地活着。
·“我出发了。”
这是《铃芽》里最常出现的台词,也是日本文化语境里最常用的话。短短四个字,却包含了很多层意思。地震当日,每个说出这句话的人,可能都再也无法重新见到家人。这句话成了他们之间的最后一句话。
所谓灾难,就是说出“我出发了”之后,再也无法说出“我回来了”的时刻。逝者的亲人不仅要承受这份失去的痛苦,还要承受回忆的重压。所以每当关门时,铃芽都会听到当地人们源自生活的声音,悉心感受门里那些日常生活的记忆与情感。
而这也是新海诚透过电影想让我们铭记的——日常的一个个纪念性瞬间、那些珍贵的情感瞬间,它们不会轻易消失。即使离世,也仍会给世界留下印记。还活着的人,不会忘记他们,不会忘记那些记忆,会一直温柔地记住,并不断出发,去驱散阴霾。
正如草太所言,“我知道命如蜉蝣,死亡如影随形,但我依旧祈祷,哪怕只是再多一年、再多一天、再多一时,我们也想要活下去。”
每个靠自己的意志走出至暗时刻的人,每个努力做自我修复的人,应该都会对《铃芽之旅》产生很深很深的共鸣。
我支持此译名的理由:
先看看原文的“戸締まり”在《大辞林》中的释义:
戸締まり(名)スル: 出入り口の戸や窓などを締め、鍵をかけたりなどして、外から入れないようにすること。
简而言之:锁门。
我们知道锁门实质上就是将本可以活动的门扇通过插销之类的装置与固定的门框连结,使门扇无法活动从而达到阻止通行的效果。
接着看下中文中的“户”“缔”二字:
户:半门曰户,象形。——《说文解字注》
也就是半开的门,“门”是两边对开,从繁体“門”字形可看出。
缔:结不解也,从糸帝声。——《说文解字注》
缔:结在一起。屈原《九章》:“气缭转而自缔。”引申为缔结,订立。贾谊《过秦论》:“合从缔交,相与为一。”——《古代汉语常用字字典》
相关词:缔连,缔合,缔结,缔约,缔交,缔盟,缔婚等。这是由物理的连结引申向抽象意义的连结,是汉语发展过程中的词义扩大。
可以看出,“缔”字含义与锁门动作本质上的共通处,因此,用“缔户”表示锁门,虽然是日语用法,但作为中文也是成立的。
接下来是语序问题,按照中文语序,门是被锁的,是宾语,应在动词后,“锁门”应当对应“缔户”,译名保留日语“户缔”是否不恰当呢?
请看中文中的例子:
“兵挫地削,亡其六郡。”《史记·屈原贾生列传》
“兵”被“挫”,“地”被“削”。“户”被“缔”。
这样的句子中,受事者置于动词之前,成为焦点。
因此,“户缔”语序在中文中没有问题。
接下来是美感。
这一点,我想先介绍一下由俄国文学理论家什克洛夫斯基提出的“陌生化理论”:
“给平常的事物赋予一种不平常的气氛,这是很好的;人们喜欢被不平常的东西打动。在诗歌中,这种方式是常见的,并且也适宜于这种方式。”
陌生化理论在文学上有着广泛应用,我国古代也不乏有诗人用字求新求奇求险,不遵成规,不落窠臼,为的就是给人“耳目一新”之感,“延长读者的感受时间从而增加美感”,而汉字的含义不断丰富的过程,也离不开创新的用法。因此如果以“我们古代用‘阖户’,用‘闭户’,又不用‘缔户’”为由反对此译名,未免有点低估汉语的创造力,容纳力,生发力。
大家或许听说过,“取缔”这个词,就是近代由日本传入,而在它在现代汉语中的含义“明令取消,关闭,禁止”中,我们难以发觉与“缔”字本义“系结”的关联,但这个词依旧为我们的语言系统接纳并且固定下来。而“铃芽户缔”不仅意思上可以得到解释,同时“缔户”并不作为固定用法进入汉语,只是一部电影的译名中临时的语言现象,这样看来,大家又有什么不能接受的呢?
此外,电影的标题并不承担让观众一目了然地知道作品讲的是什么的功能——我们有简介。也并不追求一定是在语法上准确无误的,表达上符合语言规范的,能让人从字面上直接了解含义的。标题,完全可以以简洁的音韵美和形体美为导向,即使要以会变得“不知所云”为代价。何况本例还可以得到解释。
综上所述,我认为“铃芽户缔”作为《すずめの戸締まり》的中文译名,虽然表面上是删去了所有假名而已的粗暴移植,但实际上选词含义通顺,语言结构有据可循,印象上整体简洁约练,是可接受的,合适的,甚至优秀的。
2023年2月12日编辑:
想补充一下,好多小伙伴的回复看上去是把不同的译名完全对立起来了,只要支持某一个就一定是在否定其他,这篇文章的所谓“支持此译名的理由”,就只是阐述一下我认为“铃芽户缔”作为译名可以接受甚至好的原因在哪里。这种过程不存在对其他译名的攻击,也没有要粗暴地把不同喜好的人区分开来贴上“雅”“俗”“文艺”“土”等任何定式的标签,更绝没有要贬低喜欢其他译名的小伙伴们的自身价值。
译名并没有唯一的标准答案,实际上后面的几稿“铃芽的门锁”,“铃芽之旅”,我也认为很得体很恰当。“铃芽小姐来锁门”我虽然觉得有些欠考量,但如果你喜欢,我也相信你一定有个人的理由,如果你愿意花时间组织语言并分享出来,我也非常欢迎。
本文围绕的问题,本身只是一个语言上的小问题,是一个完全可以在轻松随意的氛围中展开意见交换的问题,意见的分歧很正常,因为大家对文字的感觉各不相同,对“电影标题”应当具备的特征也都有自己的标准,我发文的目的并不是要让大家都来认同我,认同“铃芽户缔”为最好的答案(这一点我自己也并没有断言),只是想分享自己的感受和随之的一些思考。
所以,支持我也好,反驳我也好,希望大家友好地发表观点,谢谢。
女主的角色性格也太不讨喜了吧,看得全程迷惑脸。为了一个上学路上萍水相逢的陌生男子,就学也不上了,家也不回了,抚养自己十年的姨妈也不要了,一门心思追求真爱去了。这种浪漫爱的情节真是让人受不了啊。另外,我一直想问女主的爸爸在哪里?二娃酒馆老板娘的丈夫又在哪里?如果日本社会普遍都是丧偶式家庭的话,女主到底又为什么会莫名其妙对一个异性产生爱情啊?这样的异性根本就不可靠啊,不是吗!
相较于之前相对私人化的作品,《铃芽户缔》包含了之前新海诚作品中不怎么出现的社会性元素。正面描写311东日本大地震对社会,对家,对人的深层次摧毁性的同时,也正好映衬着当下的疫情世界,以及疫情背后闭塞的日本社会。此外,或许这些年去过太多日本的乡村,泡沫经济后留下的废墟,以及311的受灾小镇,当看到这些熟悉的场景以动画的形式出现在影片中时,感触很深。世界虽然越来越混乱,还是希望能够守护,珍惜世间美好。新海诚或开启属于自己的新篇章!
爱猫人士看不得这个,小猫为什么要成为男女主爱情的牺牲品,小猫那么可爱,那么无辜,那么喜欢女主,女主怎么可以凶小猫,到最后也没给小猫道歉!你也知道当要石多么痛苦艰难,不想让你男人当,为啥就让小猫当,小猫对人类仁至义尽了!自私丑恶的人类就应该灭绝!!!小猫统治天下!!
新海诚比较适合拍言叶之庭和秒五那种剧情可以用一句话概括的,一旦有起伏就不太行了
下届奥运会没女主我不看。
绝望了,非要用猫置换你那小男友是吗
11.7提前点映。简要的感想大概有这么几点。1、虽然涉及了记忆不可能性的问题,但是对灾害的专名(例如3.11)过于固执。2、恋爱线展开过程中情感互动太苍白,以至于不得不将男主设定成大帅比来弥补坠入爱河的动机。3、在设定上灾害之门只在人口减少的寂寥场所才会出现,但是人山人海的东京也成为了其中之一,为什么东京是一个寂寥的场所,处理方式过于暧昧。整个电影都在散发着一种“就算是充满灾害的列岛之国,我们也要、也能够继续活下去”这样的强有力的鼓励,但是因为以上几点的拉胯,导致这个鼓励的感动至少减少了一半。
真是,拍了八百年还是那味儿,不了解爱也不会讲故事,只会一味地铺华而不实的浪漫爱神话。从女主为了男主死活不跟一把屎一把尿拉扯大的姨妈好好解释为什么自己不着家,我就知道这一看就是幼稚没吃过苦的男宝编的看似工业糖精实际把女的智商碾在脚底的文化大糟粕
旅途和废墟 所有情感中只有爱情最无聊
我在意的是,你们真的把两只猫猫给扔在那了😭
结局若是男女主都变成要石,猫咪依偎看风景就更妙了
像在网红餐厅吃了一顿饭。
請給我芹澤車上的歌單,我下次出門聽!
《你的椅子》
大臣我啊,不能去铃芽的家啦。暴风哭泣。
期待拍续集,讲述铃芽去四川封印地震的故事。第一部铃芽体验了神户小酒馆夜生活,第二部可以拍铃芽去四川旅游,发现地震的时候四川人还坐在河里打麻将。
两只猫咪,原本是怎样的两个人呢,有些可怜捏,很在意,能不能出个番外交代一下。看完特典画册发现大臣原始形态就是在往门里面那只大猫,那无缘无故让闭门师来顶替它自己的使命,就有点太过简单了,就是寂寞了想出来玩就牺牲掉一个闭门师的生生世世吗,真是有点……
铃芽和她的椅子,从狭长日本的西南九州,一直跑到东北宫崎,横穿了整个岛国。途中乘新干线,经过名古屋到东京站,再到御茶水,这种我曾经也走过的路、见过的风景和建筑出现在动画电影中的兴奋心情,大概是只有在这里实际生活过的人才能体会到的,更不用提它可能带给观影者饱含代入感的灾后反思了。以前一直对新海诚无感,大部分是因为拒斥莫名其妙的爱情展开,凭啥这就爱起来了?但我现在觉得“想要接近”只是爱的必要条件,“害怕远离”才是其充分条件,即铃芽所说的“没有草太的世界才让我恐惧”,或《雀斑公主》那句“我不愿想象没有你的未来”所表达的不可或缺性。或许只要当事人清楚感受到这一点,爱就可以成立。至于这种不可或缺是从哪来的,则全无所谓。正因如此,人才愿意打破以往循规蹈矩的生活,去追逐梦想,否则和咸鱼有什么区别?
和天气之子一样完全无法理解男女主之间突然的深情,但其他部分都优于前作。一直都更喜欢偏向表达自我的作者,但新海诚的内在世界总让我觉得幼稚和苍白,这次选择社会化一点的中心议题反而比较好。一如既往的精致作画下掩盖不住喷薄而出的恶趣味。
新海诚所有作品以来的超越之作,谁说你电影没内核,这次咱不就飞升了吗!这次他将作品献给了所有人,你是否也在等待着为你打开门撞破桎梏的人呢。和解是人生最重要的一步,痛苦才能让我们学会成熟,一笑了之,你现在经历着的正是最美丽的人生啊!